第十四回 イタリア大会


1990年に行われた、ワールドカップイタリア大会。
我が日本は、時あたかもバブル景気の真っ只中。
自動車レースの最高峰F−1チームのオーナーに日本企業が名を連ね、
空力の粋を集めたボディには、そのチームのスポンサーであることを示す
日本企業のステッカー(少年漫画雑誌のものまで!)が、
貼られておりました(ことの是非を言っているのではありません、念のため)。
書店に行けば、どのようなジャンルであれ、毎月のように新たな情報誌が創刊され、
そして消えて行きました。

消費することが善であるとされた時代。

サッカーメディアも例外ではなく、F−1雑誌のもろパクリと言える装丁の、大きな大きな
「サッカー○○○○」が毎週のように店頭に並べられてはいたのですが、
それまでスポーツの世界では、プロ野球の陰に隠れ、むしろマニアックな趣味の
世界であった(少なくとも私はそのように捉えておりましたし、
そういった密かな楽しみ方にこそ醍醐味を感じておりました)サッカーが、
突如として日の当たるメインストリートへ引き出されたような
感覚にどうしても馴染めず、ほとんどそれらを手にとることはありませんでした。
ですから、現在手許に残っているイタリア大会関連の本も、「Number」誌の別冊、
「’90イタリア・ワールドカップの21人」一冊だけです。
タイトルからもお分かりの通り、試合の結果をまとめたダイジェストではなく、
選手一人一人にスポットを当てて、ドラマ仕立てにする、「い・か・に・も、Number」
といった手法でまとめられた、いわば読み物です(好き嫌いは、はっきり分かれるでしょうが)。

この当時の私は、自分がバブルに全く縁のない生活を送っていたこともあるのでしょうが、
「踊らされないぞ!」っていう自戒と、「浮かれやがって!」っていうヒガミが
入り混じった、複雑な気持ちで世の中を見ていたような記憶があります。
子供が生まれて間もない頃で、自分が親になったことに対しても
恐れを抱いていたのかも知れません。
これまでの人生で、一番宙ぶらりんな時期であったように思います。


78年、82年、86年の大会については、はじめに資料がありましたので、
この「名勝負物語」を書く事が出来ましたが、このイタリア大会だけは
その資料が不十分(しかも自ら意図して)ですので、完成までに時間がかかってしまうでしょうね。

そこで、ちょっと趣向を変えてみました!

「イタリア大会のヒーロー」ということで、印象に残った選手たちを紹介します。

マリウス=ラカトシュ
(ルーマニア FW)


・ おかっぱ頭の快速ウィンガー。
予選リーグの対ソ連戦で見せた
ロケットシュートは、これまで見たどの
シュートよりも印象に残っています。
’94アメリカ大会でもその姿を
見たかったのですが・・・。
レネ=イギータ
(コロンビア GK)


・空前絶後の“攻撃型”GK。
本当はこの写真ではなく、カメルーンの
ミラを相手に引き技をしようとして
逆にボールをかっぱらわれた
シーンにしたかったのですが・・・。

↑「なんでキーパーがこんな場面で?」と
思ったあなた。あなたは正しい!!
サルバトーレ=スキラッチ
(イタリア FW)
ロジェ=ミラ
(カメルーン FW)


・ イタリアワールドカップをご存知の方なら、
Jリーグ発足時にカズ選手がゴールを
決めた時にしていた“カズダンス”を
見て、「おやっ?」って思われたでしょ?
だって、どう見てもあのダンスの原形は、
このミラ選手の“マコサ・ダンス”でしたからねぇ。

さて、この大会出場選手中
最年長(当時38歳!))のミラ選手でしたが、
チームの成績(アフリカ勢初のベスト8進出)同様、
この大会にセンセーションを巻き起こしたこと
だけは確かです。

大会終了後、メディアはこぞって
「大会中の一服の清涼剤」だの、
「アフリカの野生の魅力」
だのと持ち上げましたが、私自身は
あまり、このカメルーン代表チームに対して
良い印象をもっていないのですよ。
というのも、結構エゲツない
ファウルを巧妙にオブラートにくるんで
やってましたので。
サッカー新興国の、いい人っていうイメージを
逆手にとって、
したたかやなぁ、こいつら!っていうのが
正直な感想でした。

 
カルロス=バルデラマ
(コロンビア MF)


・ この選手の存在を知ったのが
メキシコ大会後’87年の南米選手権を
特集したサッカー誌の表紙においてでした。
一目見た時は、「なんとまぁ、ものすごい
髪型やなぁ。」としか言えませんでしたが、
それから大会を総括した記事を
読み進むにつれ、単純な第一印象は
「ほんまにこいつにマラドーナが
やられたんかいな?」といった疑問に、
次いで「次のワールドカップに出てこんかな」
といった期待へと変わっていったのでした。

そしてイタリア大会で見せた彼のプレーは、
体力と組織力頼みのヨーロッパサッカーに
対する強烈なアンチテーゼでした。
スピード、パワーで相手をねじ伏せるようなところは
みじんも無く、一本のインサイドキックで
スパっと相手の急所を突く、
まるでボール回しを楽しんでいるかのような
プレー振りは、それまでに私が見たり
やったりしてきたサッカーとはちょっと異色で
はありましたしたが、とてもシンプルで
魅力がありました。

この大会でのコロンビア代表は、このバルデラマ
といい、イギ−タといい、とかく
ビジュアル面での印象ばかり強いのがちょっと
悲しいですね。
ディエゴ=マラドーナ
(アルゼンチン MF)


・ セリエA’89−’90のシーズンで
二回目のスクデット(セリエAの優勝トロフィ)を
ナポリにもたらしたマラドーナは、間違いなく
ナポリの英雄でした。
ミラノ、トリノ、ジェノヴァといった北部の
先進工業都市に対し、常に負い目を
感じ続けてきた南部の人たちにとって、
せめてサッカーでは北部のチームに
一泡ふかせてやりたいものだ、といった
屈折した思いを実現してくれたのが
まさにマラドーナだったのです。

そんな熱狂の中で迎えたワールドカップ
イタリア大会。前回チャンピオンである
アルゼンチン代表チームは開幕戦の舞台で、
いきなり大番狂わせを演じてしまいます。
アフリカから二度目の本大会出場を果たした
カメルーンが、その相手でした。
スコアは0−1の敗戦でしたが、マラドーナにとって
それ以上に辛かったのは、スタンドにいる
イタリア人客のほとんどが、
マラドーナの味方をしたくないがために
カメルーンの応援に回り、彼にブーイングを
浴びせ続けたことではなかったでしょうか。

そのような状況が、この大会における
すべてのアルゼンチンの試合で
繰り返されました。マラドーナにボールが
渡っただけで、「ブ〜〜〜〜!」の大合唱。

そんな中で、怪我で腫れ上がった足首を
だましだまし、彼の孤独な戦いが続きました。
絶対に勝てないと言われた対ブラジル戦、
試合を決めたのはやはりマラドーナの一本の
パスでした。珍しく右足(と記憶してます)
のアウトサイドから繰り出されたパスが
二人のディフェンダーの間を抜け、
マラドーナのベストパートナーである
クラウディオ=カニ−ヒアの元へ・・・、
キーパーが飛び出す直前に放たれたシュートが
ブラジルを沈めたのでした。

そして迎えた運命の準決勝、対イタリア戦。
会場になったのは皮肉にもナポリ、サンパオロ・
スタジアム。
この試合でイタリアを破ったことにより、
彼はイタリア人にとって最も憎むべき人の
一人になってしまったのです。

しかも、決勝戦で西ドイツに敗れたあとの
シーズンにおいても、契約上ナポリで
プレーし続けなければならなかったとは・・・。
およそ我々凡人には想像もつかない
プレッシャーの中で、彼の精神はズタズタに
なっていったのでしょう。そしてそこから
逃れる為にドラッグ(スペインリーグ
在籍中から服用歴はあったらしい)に
手をつけ、出場停止処分。
挙句の果てには自宅へ取材に訪れた
(そんな生易しいものではなかったようですが)
取材陣に対して発砲と、滅茶苦茶な
行動ばかりが取り沙汰されるスキャンダル
メーカーに成り下がってしまったのでした。

「身から出た錆」と言うべきなのか、
巨大な力にもてあそばれた者の末路と
言うべきなのか、誰にも答えることは
出来ないでしょう。
けれども、ディエゴ=マラドーナという男は、
フィールドの内外で常に闘い続けていた
ということだけは、間違いなく言えるでしょう。

今の彼がどのようになっているかに私は
別段興味はありません。
大きな大会が行われると、ときたま伝えられる
彼の寸評に苦笑いをすることは
ありますが・・・。

マラドーナ個人について
もっと知りたい方はこちらへどうぞ。
ものすごい力作です!
ポール=ガスコイン
(イングランド MF)


・大柄で屈強なFWに向かってアウトサイドから
ロビングを放り込み、パワープレーで
得点をモノにするといった
旧来のイングランドサッカーのイメージを
一人で覆したイマジネーション溢れるテクニシャン。
準決勝で西ドイツに敗れた時に見せた涙は、
“男”を感じさせました。
ユルゲン=クリンスマン
(西ドイツ FW)
ドラガン=ストイコビッチ
(ユーゴスラヴィア MF)


・名古屋グランパスの「ピクシー」といった方が
通りが良いかも。
この大会、一人でユーゴをベスト8まで導いた
と言っても過言ではないでしょう。
独特な間合いでひょイひょいと相手
ディフェンダーをかわして行き、ファウルを
もらってはFK、PKで得点を重ねていた
記憶があります。
右足一本しか使わないピンポイントパスは、
誰にも真似することを許さない!