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ヒューマン 龍野の人柄 |
豊かな歴史と大らかな自然は、名品を生んだだけではなく、
ここで暮らす人々の心も育みました。
それは、穏やかな心と尽きることのない好奇心。
この2つを胸に秘め、自らの道を進んだ先人たちもまた、
龍野が誇り、そしてお手本にしたいと考える存在です。
とりわけ、童謡『赤とんぼ』を作詞した三木露風、
多くの学者を育てた中井甃庵(なかい しゅうあん)は注目の人。
そのやさしさと向上心は、いつまでも私たちの心に響きます。
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今も愛される「赤とんぼ」を作詞 三木露風(みき ろふう) |
「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か…」。
幼い頃、誰もが口ずさんだ憶えのある「赤とんぼ」。
自然の美しさ、ふるさとへの憧憬を綴った詩は、龍野出身の詩人・三木露風によるもの。
長い時を経てもなお、親から子へ、と歌い継がれています。
1889年に龍野で生まれた露風は、7歳の時、両親が離婚し、母かたは実家に帰ります。
龍野町長で九十四銀行頭取であった祖父制(すさむ)の家に引き取られた露風は、
お手伝いの姐やに育てられました。このことは、彼に大きな影響を与え、
終生、母への思慕が尽きることはなかったと伝えられています。
少年時代からはじめた詩作では類いまれなる才能を発揮、
北原白秋とともに「白露時代」と呼ばれる一時代を築きました。
「赤とんぼ」の詩を発表したのは1921年。
北海道のトラピスト修道院に講師として着任していた時で、
ふるさと龍野の思い出、幼い頃母と過ごした日々へ思いを書いたといわれています。
その生涯を閉じるまで、詩作を続けた彼は、1964年、不幸にも交通事故に遭い、75歳でこの世を去りました。
龍野公園内には、童謡の小径と称される道や「赤とんぼ」歌碑があり、
夕方になると、露風が見たであろう夕焼けを眺めることができます。
また、抒情詩「ふるさとの」は、龍野公園聚音亭に詩碑があります。
また、旧市街には幼年から少年時代を過ごした旧邸跡や
文献、遺品などが展示されている霞城館もあり、
足跡をたどることができます。
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大坂学術の発展に貢献 中井甃庵(なかい しゅうあん) |
1724年、大阪の豪商たちによって創設された学問所懐徳堂は、その2年後江戸幕府から公認されました。
この時、奔走し、預人(学長兼教授)に就任したのが中井甃庵(なかい しゅうあん)。
脇坂藩医であった中井玄端を父に持ち、龍野で生まれ、幼少時代を過ごしましたが、
14歳の時、一家で大阪に移住。晩年まで懐徳堂の発展に貢献しました。
その遺志を継いだ甃庵の長男竹山、次男履軒の頃は、西日本の学問における中心的存在に。
諸大名や旗本、藩士、学者との関係も緊密になり、富永仲基、山片蟠桃などの
すぐれた学者を輩出しました。
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